soubou8131’s blog

INTP-Tとのこと。無為徒食徒然大学生(二十歳)

スキゾイドと飲み込まれ不安

通院を手伝ったりしていた友人に、パーソナリティ障害だという診断が出た。パーソナリティ障害とは、大多数の人とは違う反応や行動をすることで本人が苦しんでいたり周りが困っているケースに診断される精神疾患のこと。何種類もあって、〜性パーソナリティ障害と名前がつけられる。彼女がどのパーソナリティ障害であるのかは聞かなかったけれど、少し調べてみた。

すると、その中にジソイド性パーソナリティ障害というものがあった。またの名をスキゾイドというらしい。この特徴がどうも自分にぴったりと合ってしまい驚いた。今まで、自分の何か異端なところを感じることは結構あったし、変なやつだともよく言われた。MBTIのような心理学の手法を使って説明してみても、どうも自分のおかしさのようなものをうまく捉えられずにいた。スキゾイドはその捉えられなかったモヤモヤにぴったりとはまった。

 

 

 

のみこまれるもの、

のみこまれぬもの、

のみこまれえぬもの。

 


スキゾイドというのは、飲み込まれ不安というものからくるらしい。飲み込まれ不安とは自己と他者が同一化することで自我を保てなくなってしまうのではないかという不安。誰からも必要とされず捨てられてしまうのではないかという不安である見捨てられ不安とは対極の立場にある。いきすぎた見捨てられ不安が他者との同一化を求めるのに対して、飲み込まれ不安は他者との絶対的な隔離を求める。

よく世の中で耳にする「わたしを見捨てないで〜」みたいな歌詞にまったく感情移入できなかったのはこれが原因かとも思った。「抱きしめて〜」みたいな曲も全くわけが分からなかったが、おそらく強すぎる飲み込まれ不安から来るものだろう。スキゾイドはその強い飲み込まれ不安のため、無意識のうちに共感性を排除してしまう。たとえば、スキゾイドは人を人格のないモノとして扱う傾向がある。感情的で深い関係を拒絶するために、あえて人に感情がないと思い込むのだ。

はじめ、卒業研究を印象生物学や動的平衡というテーマで進めようと思ったのも、これが原因かと思った。人を人として見たくなかった。すべてはモノであり、生きものもその中の一部でしかないと言いたかった。

 


遍路に来てから撮れた写真には仏像の写真が多かった。どの仏像も光の中にあった。そこには、自己と他者を区別できない感情の泥沼から抜け出したいという、垂直上昇の願望が表れていた。仏像は決して私を飲み込まない。

以前、山田先生にこれを撮りたいというものはあるか?と聞かれて、人間。と答えたことを覚えている。人間からは逃げられない。最後には人間と向き合うことになるだろうと思っていた。

 


道中、旅人に出会った。50代くらいだろうか。日本縦断の途中だという。ロードバイクにリアカーをつけて走っていた。自分も大きなパニアバックを2つ付けて、その上にテントや鍋やサンダルをぎゅうぎゅうに縛っていたから似たものどうしだった。同じように自転車で旅をしている人に出会ったら一緒に写真を撮っているという。彼のケータイで写真をとった。

自分もコンデジを持っていたから、撮らせてほしいとお願いしようと思ったが、出来なかった。いまだ人間に向かえない。

 


仏像は人として扱えたのかもしれない。疲れて山の上の寺に着いたとき、そこにいたのは人間だった。動かない石という形で自分の前に現れただけの人間。そんなことを考えたような、考えないような。

 

 

 

その後も様々な場面でお接待としてみかんをもらったりお金を頂戴することがあった。神奈川から来た歩き遍路のおじいさんは、若い頃九州を自転車で一周したことを思い出すと言って千円札をくれた。自分のように自転車で周っていた丸いヒゲのおじさんは500円をくれた。みんな、「君はどこから来た?」「これからどうする?」と質問をしてきた。大抵、自分のことについての質問だから、自分のことを一通り説明をした後、「そちらもお気をつけて」などそれらしい声をかけて立ち去った。立ち去ってから、はて自分も何か質問をした方がよかったのか?などと思い返す。もしかしたら自分のことを話したかったのかもしれない。悪いことをした気分になって、もう一度やり直したくなる。失礼のないようにその場をやり過ごすことだけを考えていた自分を自覚し、改めてがっくりときてしまう。「人間に興味がない。」「人を見下している。」誰かに言われた言葉をまた思い出す。

 

 

 

 


どうやらこの旅は、自分の無意識を自覚する旅らしい。仏像を撮っているとき、何かを撮っているという感覚があった。垂直上昇の願望。のみこまれうるもの。無意識の自分。

写真を撮ることでそういったものを自覚しているような気がする。

いまだ人間は撮れない。それでも、仏像の裏に透けて見える無意識の自分は、のみこまれうるものへ向けた自分の姿そのものではないだろうか。のみこまれうるものが排除されたこの写真群は、果たして何かを表現することができるのだろうか。